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-刻印-
少しくらいは顧問らしいことをと考え、部員たちを帰路へ送り出すことにした。
「バイバイ、センセ」
「また明日〜」
最後の一名までは、順調に見送っていく。
その最後の一名。
部室から出てくる気配が全くない。
苦手な人間に会いにいくときのように、彼女は小さくため息をついた。
アメフト部の部室からは光が漏れていた。
和華は、ノックせずに少しだけドアを開く。
ギキィッ………
そんなに大きな音ではなかったが、中にいる人間なら扉が開かれたことに気づかぬはずはない。
「………」
顔だけ覗かせて、「最後の一名」の姿をうかがった。
「……」
彼女に視線をうつすことなく、蛭魔は作業を続けていた。
「……そろそろ帰りませんか?」
「帰ったって同じだ」
「……そうですか」
彼の家庭環境に触れてしまったのはつい何時間か前のことだ。
和華は何も聞かず、ただあいづちをうつだけにした。
全然動く気配がないその腰に、彼女はそこまでの長期戦は望まないにしても、少しはここにいるべきなんだろうなと勝手に解釈する。
彼女は観念して扉を開いて、部室の中に入った。
「……オホン。
教育実習、顧問初日の私的には、全員の下校を見届けたいのですけど?
今日一日で、いろんな噂、聞きましたよ。
泥門の悪魔さん?」
「……どーせろくでもないやつだろ、」
パソコンをたたく片手間に返事が返ってきた。
「いえ、みんな肝心なところになると口をつぐんじゃうので、結局何も分からずじまいです」
「ネタ握ってるからな…ケケ…」
沈黙の中、彼がキーボードを叩く音だけ響く。
彼女は人との関わりにおいて、この無言の間が苦手だった。
なんでもいいから、口を開いて、帰って来るのが拒絶だらけの返答でも、この沈黙をやぶるものならなんでもいいと思っていた。
しかし、今は平気でいられる。
聞こえてくるテンポのいいキーボードの音がそうさせるのか、それとも彼女の頭の中をめぐる疑問符のせいか……。
いつもこんな遅い時間まで残っているのだろうか、家族は心配しないのか、次の日疲れは残らないのか、そこまでさせるアメフトの魅力とは……
どうして、自分自身を悪役にしたがるのか?
目の前の人物に疑問をなげかけたい衝動をやっと抑えて、ため息をひとつついた。
少し、手持ちぶさたになった彼女は、退屈そうにリップをとりだし、
塗ろうとふたを開けたところで、ふとイタズラめいたことを思いついた。
「唇、乾燥してます」
そういって下唇をにふれた。
彼の。
それが触れたとたんに、
途端に顔色を変え、キーボードから手をはなし、彼女の手を振り払った。
しかしそれは彼女の予想範囲内のこと。ぱっと飛びのいて避けた。
「ア・ク・マ・さ・ん・が・テ・れ・た」
「だるまさんが転んだ」のフレーズにあわせて、2、3歩小さく後ろに下がる。
「あはは、蛭魔さん顔赤いですよ?」
そういう彼女の方が真っ赤になっていった。
和華自身、どうしてそんなことをしたのか分からずに戸惑っていた。
ただ、「くだらないことをした。反省」という気持ちが大きくなっていった。
蛭魔は、無言ですばやくに立ち上がると、パソコンを閉じて、カバンにつめた。
そして、和華の前に立ちはだかる。
切れ長の目をさらに細くして、睨みつける。
身長差、30センチ弱……。
上からすごまれれば、さすがに彼女も恐怖した。
外への出口となる唯一の扉へと、一歩ずつ後退していく。
「……えっと、怒らせちゃいました?」
蛭魔は彼女が距離を離した分だけゆっくり詰め寄り、そのまま、慣れた手つきであかりを消す。
彼女がもう一歩下がると、背中がドアへとあたった。
「えっと、それじゃ。また明日……」
和華は、後ろ手にドアを開く。
そして、先に外へ出ようと体を反転しようとしたがそれを彼が阻んだ。
彼女の首筋に、鋭いものが食い込む感触。
湿った感じで、それが歯であると分かったときには、肩を小突かれて部室外へと出されたときだった。
「てめぇの方が赤いぜ、糞エロ教師」
わずかに体温が合わさってほてるうなじを、夜風が冷やすように通り過ぎていった。
彼女の存在を気にすることもなく、いたって平静に、蛭魔は部室の鍵を閉め、そして去っていった。
辰巳和華教育実習生活一日目。
無事、全アメフト部員の下校を見送る。
1名のみ、棒立ちだったが……。
-見学-
教育実習二日目。
少しは、冷静に周りを見られるようになってきた気がする。
そもそも、教育実習というのは受け入れる学校側にも負担が大きい。
通常の仕事はそのままに、何も分からない新人に教育と経験をあたえなければならないのだ。
ところで、私は泥門が母校でもなければ、大学側が指定した実習校でもない。
兄がこの高校を実習先へと進めた理由は、「なぜか実習期間が倍」あるからである。
こう見えて人見知りが激しい(何をもって人見知りとするかが問題、だが)
私がゆっくりと慣れることのできるように。
また、私の長年の主治医が校医として在中できるようにと、非常に自由な校風のこの高校が選ばれたのであった。
私にとって、とても自由な場所であった。
しかし、先輩の先生方もかなり自由だ。
「朝のSHRよろしくね。夕方はやらなくていいから。
それから、明日のHRの時間と日本史の授業もよろしく。
今日の授業は見学ということにして……
あ、提出してあったレジュメ添削しといたから、直して再提出ね。
明日の授業はそのレジュメのまま進めてもらってかまわないから」
信用してもらっていることはうれしいけれど、こんなに早くまかされて大丈夫なのかと少し不安になる。
ここでしかできない経験だと自分を奮い立たせ、朝のSHRのチャイムと同時にクラスへの扉をあけた。
「おはようございます。SHRですが……
今日は朝からテストです!」
「え〜?」
みんなの悲鳴がうれしくて、つい微笑んでしまう。
昨日、蛭魔さんにもらったクラスデータブック(?)の予習のおかげで、生徒たちの名前と顔が一致することに安心した。
「問題です!……ジャラン!
天下分け目の戦いと言えば…」
「……関が原じゃね?」
生徒の一人がそうつぶやく。
私はTVのクイズ番組のイジワル司会者みたいに
「……ですが!」と続けた。
「では、………初代総理大臣と言えば」
「……」
みんなも今度は警戒して、私の次の言葉を待っている。
「伊藤博文……ですが!」
「今日の私の服は……だれでしょーか!?」
とたんにみんなの視線が服に集まった。
予想外の恥ずかしさに、私は思わず両腕でなるたけ服を隠すようにしてしまう。
「ずりー!」
「見えないー」
「っていうか普通のスーツじゃない?」
「でも、なんかどっか懐かしいというか……」
「あ、あれアレ!」
「ドラマで……」
「……分かった!」
「せぇの!
ショムニー!!」
ニコニコしながら、
「ブブーっ!」
「正解は江角マキコでした」
「ええええ?」
「そんなミニじゃないじゃん」
「どっちかといえば……」
「ああ、身長ないからミニとかに見えないんじゃない?」
私の母は海外生活が長い。
たまに、娘への愛情表現として服を作って送ってくる。
それは、向こうで放映している「日本のドラマ」の影響を多分に受けたものが多く、普段着としては着れないものが多い。
「センセ身長いくつー?」
「……うっ」
都合の悪い質問は聞こえなかったことにした。
今日は、授業見学がほとんどだ。
まずは数学の授業……と聞いて少しブルーになる。数学は苦手だった。
教室の後ろに立ち、たまに目が合う生徒に手を振っていた。
なんだか授業参観にきている親のような気持ちだ。
チャイムが鳴り、先生が来た後も、みんなはざわざわしていた。
数学の担当は、年配の森先生という男の先生で、優しそうに見える。
その森先生も、生徒たちのいつもと違う雰囲気にとまどっているらしかった。
私が見学していることで、みんなの心を浮つかせているのかもしれない。
そう思うと少し責任を感じる。
それでも授業はすすめられ、森先生は教科書の問3を黒板に書くと振り返って、誰かに解答を求めた。
「では、この問題を……」
「ハイ!」
一番後ろから手が上がる。……勿論、私だ。
「ずばり、サイン45度〜!」
教室内が一瞬静まる。
沈黙を打ち破ったのは森先生の一言
「……辰巳先生…」
私は右手の親指を突き出して、ウインク一つ飛ばした。
「……違いますね」
教室にでっかい笑いが起きた。
「あれ?不正解ですか?あはは。」
頭をかいてごまかす。
「え?何?どの問題だったの?」
「問3だろ?」
「……つーか普通に公式当てはめて…」
「公式ってこれ?」
「辰巳センセ〜こんなんどうやったら間違えられるんだよ」
みんな振り返って私を見るので、とりあえず手を振ってごまかした。
授業で今どこをやっているか(というか私がどれを間違えたか、だが)把握してくれたらしい。
な〜んだ。みんな普通に解けるみたいだし、先生の話も聞く気になったみたいだし、私の役目はこのくらいだろう。
「えっと、次は英語か。今度はおとなしくしてなきゃ……」
授業開始のチャイムと同時にドアの開く音。
教室に入ってきた先生に、私は見覚えがあった。
(…でも、全然私のこと気にしてる様子もないし、人違い?)
授業はかなりクールにすすめられていた。
先生の雰囲気が怖いからか、みんなもおとなしくしている。
…この静けさは、眠くなりそうかも……。
あくびをかみ殺そうとしていると、英文を読み上げた先生が生徒に日本語訳をさせるところだった。
「では、今日は11日なので……出席番号が11……」
11番の男の子がピクリと反応する。
「……ではない辰巳先生」
「………………は?」
思い出した。間宮……そうだ。兄さんに学部の首席を奪われた、あの……。
「…どこどこ?」
一番近くの女生徒に教科書を見せてもらう、……英文、長い。
「えええ……っと…」
私が顔を上げると、間宮先生が口の端だけで笑っているのが見えた。
「って!なんで私ですか!」
「辰巳センセイはこの程度の英文も読めないですね〜」
…兄さんに勝てないから私に八つ当たりですか!
幸い、英語の教科書は持っている。
もう一度、あてられる、と思った私は授業に追いつこうと必死に英文を追った。
そして……
「次の英文を、……」
彼の見つめる先は一つ。
周りもまた、私が標的にされることは理解していた…
間宮先生と目が合ったまま……
「辰巳先生……」
「はい!」
待っていた、という感じで返事。
「辰巳先生………は昔tempuretureを天ぷらと訳してクラス中から笑われました。ので、
「天ぷら」のテンからとって、
出席番号10番。」
クラスに笑いが起こり、不本意ながらまた注目を受けた。
今度兄に会ったら間宮先生の弱点を聞こうと、私は誓った。
-実践-
放課後、和華が練習場へ行くとすでに練習は始まっていた。
何組かに分かれて、彼女が見たこともない練習が行なわれている。
さっと見渡して、蛭魔の存在がないことに彼女は気づいた。
昨日の今日である。
からかわれることには慣れている彼女だが、昨日の事件は衝撃的だった。
教育実習二日目の忙しさが昨夜の記憶を薄れさせていたのが、ここにきて不意に思い出す。
(痕は……ないですよね)
思わず首筋に手をやり、またその行為に少し赤面した。
練習を中断させないように、少し遠くから「がんばってね〜」と声をかける。
そして、マネージャーのまもりの隣に腰を下ろした。
「お疲れ様です。昨日はルールブック貸していただいて…」
「私は覚えちゃっているので、しばらくどうぞ」
和華の表情が少し緩む。
「わ。実はありがたいです。昨日少し見てみたんですがまだ全然で」
「もしかしたら、本とかよりビデオとかで見たほうが入ってきやすいかもしれないですね」
「あ、そうかも。えっと……とりあえずみんなの名前とポジションを聞いてもいい?」
部員一人一人、またポジションの特徴について、まもりは親切に説明をした。
和華はたぶん半分くらいしか頭に入らないんだろうなと思いつつ、熱心にうなづく。
ライン、の説明になった時にふと、和華は口をはさんだ。
「……あの、話が戻るんですが…もしかして実際にまざって練習したほうが覚えが早いかなぁ…なんて」
「えぇ?」
ありえない!と口に出しそうな驚きだった。
「女の子のスポーツじゃないし、第一顧問の先生だし…」
真剣に止めようとするが、和華の頭の中では既にポジションを選んでいた。
「……球技は苦手なんですよね。RBも捨てがたいですが、実は私にぴったりのポジションがありました!」
ジャケットを脱ぎ、シャツを腕まくりすると、彼女は彼らに声をかけた。
「私も混ぜてください!」
幸か不幸か、主将のいないその時。
彼女はラインマンたちの目の前に立った。
「……よりによってライン?」
遠くでまもりの悲鳴があがったが、今の和華の耳には届かない。
「はぁ?」
お決まりのセリフが飛び交う。
「って辰巳センセ?」
「やっぱり、実践あるのみってことで!」
「本気!?フゴッ!」
「大丈夫です、昔、少林寺拳法とか空手とかやってました!」
「いや、確かにアメフトは「格闘技」って言われてるけど。」
「怪我さしたらど〜すんだよっ」
「受身とれます!」
「……」
「じゃあ、勝負しましょう!私が勝ったら練習に入れてください!
もし、負けたら諦めます。」
彼女にしてみれば、結局実践に加わるという目的は果たせる
彼らにしてみれば、うるさくねだられることもなくなる。
栗田さんには…無理そうだし、小結くんは…か、かわいいし。
一瞬の判断だったが、和華はリーダー格の雰囲気を漂わせる十文字の前に立った。
「思いっきりお願いします。殺気出してくれないと、反応できないんです。」
「んなことといったって。」
「私を倒したら、次の定期テストの情報を教えてあげます!」
「……………………マジ?」
外野で見守る戸叶、黒木の目が光る。
「モンジいけー」
勉強苦手組の「十文字」コールと、面白がって「センセ〜」コールが響く。
場の雰囲気に流されたまもりが、試合開始の号令となる笛をふいた。
もちろん、十文字に負ける気は全くなかった。
スタートの速さにも自信があった。
けれど、
突進していく自分の動きがスローに感じていた。
和華は逃げもせず、しかし、けして向かってこない。
一瞬、彼の脳裏に迷いが生じたが、加速のついた体はとまらない。
彼が最高のクラッシュをする、と思った瞬間。
和華は滑るように後ろに引いたかと思うと、十文字の右の関節を狙って払う。
重心を崩しそうになり、彼はもう片方の手をつきだす。
和華は、その腕をなでるように、だが確実に絡め取った。
笛の音が響く。
その場にいた全員が、音の方向に目をやると、金髪をなびかせて立つ蛭魔の姿があった。
「なんでですか?」
「反則な」
蛭魔はまもりの持っていたルールブックを和華に投げつける。
「和華先生、腕つかんだりしちゃだめなの」
「……!
投げるのは?」
「……えっと……先生?」
「腕キメルのも?」
「……お、落ち着いて……」
「だって格闘技だって言うから〜。…えんえん」
わざとらしく泣きマネをする和華にも、まもりは優しかった。
「あっちで見学しましょ。あとルールの復習」
なだめるようにして、その場から去らせた。
「つーかお前ら…勝手に練習サボってんじゃねぇ!!」
蛭魔の一声がもやもやとした雰囲気を引き締めた。
-失恋-
「じゃあ気をつけてね」
「バイバイ〜」
和華は、昨日と同じく、部員たちを帰路へと送り出していた。
「……テストの情報、よろしくお願いします」
黒木と戸叶はそろって彼女に頭を下げていった。
「……あ、はいはい。忘れてないですよ〜
また勝負してくださいねぇ」
別れ際の彼女の叫びには、やまびこのように「絶対しねぇ」と返ってきた。
「残るは……またあの方ですか?」
部室へ向かうと、案の定明かりがともっている。
ドアが半分開いており、中に蛭魔とまもりの姿を見つけた。
(あ、まもりちゃんもまだだったか)
まもりが、蛭魔の右の足首をテーピングしていることに気づき、和華の足がとまった。
どうにも崩せない、二人のそんな雰囲気を感じ取ったのかもしれない。
頭から、血の気がひいていく気がした。
ともすれば、指が震えだしそうで、表情のゆがみを抑えることができない。
気づくと、足が部室から遠のいていった。
(本当は昨日だったのかもしれない。)
(でも、今気づいたんだもの。)
「好きかもしれない」
(そして、これは失恋だ。)
夜風が、彼女を冷静にさせた。
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