第17話
辰巳和華の研究授業は、成功といっていいものだった。
授業前に彼女が念を押したとおり、生徒たちは船をこぐ者もなく、また誰かが銃を乱射するでもなく、まったく平穏に過ぎ去った。
授業内容自体は非常に簡潔なもので、蛭魔には物足りなかった。
歴史の授業の場合、どこまでを話すかが重要となる。
センターレベルならここまで。
難関私立二次試験ならここまで。
辰巳和華の授業は、教科書レベルを少し超えたあたりで、センターには勿論不十分。
けれど、歴史は得意不得意よりも好き嫌いが出やすい中で、「基礎」を全員に浸透させることは、なかなか高校では難しい。
それをやってのけたことは、認められることなのかもしれない。
誰もオチこぼれのいない、万人に受けるエンターテインメント授業。
しかし、蛭魔だけは、…偽善者にふさわしい授業だ、と欠伸をかみ殺したのだった。
放課後。
蛭魔のクラスにはHRがないため、部室へは一番ノリになるはずだった。
が、カギがあいていることに気づき、いつものように、足で扉を開けた。
「……」
栗色の束なられていない髪の先が、床をからめとるようにカールしている。
教壇に立っていた時とは程遠い、と蛭魔は思った。
辰巳和華は膝をつき、手をつき、何かを探すしぐさをしていた。
泣きそうな顔で俯いていたのに、蛭魔の姿を知覚すると一転、口をやわらかく結び感情の流失を避けたように見えた。
(研究授業は成功。テメーにふさわしいもんだった。なら、そんな顔をしている必要なんてねーだろーが…)
しかし、彼は、這いつくばっている彼女の方が好きだった。
影の部分にもがいていて…けれどそれを必死に隠したがる。
それが彼女の本質なのだと、蛭魔は思っていた。
「どうして、人間はたくさん手に入れたがるんでしょうね」
ふいに問いかけられた。
定位置に座り、足を組んでノートパソコンを開く。
たっぷりと間を取った後で蛭魔は答えた。
「一度手にすれば、もう二度と手放せなくなる。
それがガラクタでない限り」
和華はその答えに満足したようだった。
小さく頷いて、小さく笑った。
「兄さんにもらった時計のパーツが取れちゃったみたいで。
……スイス製でね。
綺麗でしょ。真珠母貝の色。
日本では、電池交換も大変なんです」
彼女は右手首に光る時計を軽く上げて見せた。
「クリスラッツェル……」
「さすが、よく知ってますね」
二十歳そこそこで、この時計を買えるわけはないし、また普通欲しがらない。
「兄からもらった」という言葉に彼は納得する。
オ○ガ、ロ○ックス、カル○ィエ……そんな有名ブランドとは違った、老舗中の老舗ブランドだった。
「困ったな」
彼女は、全然コマってなさそうな口調で言った。
床に座り込んでいるポーズは変わらないものの、実際探しているようには見えなかった。
……探しているフリだけなのかもしれない、蛭魔はそう思った。
「日本じゃ部品ないしなぁ。
スイスまで送って、部品新しく作ってもらって……
……私のおこずかいでできるかな」
遠い目をして言う彼女は、まるでやる気が見られない。
「……いっそ、
……こっちが無くなってしまえば諦めがついたのにね」
彼女の右手で、宝石のように真珠母貝が光った。
おかしいですか?、と和華は続けた。
「兄さんがくれるものは、いつだって最善なんです。
進路も、学校も、道も、モノも
……でも、時々うっとおしくなる。
教師になりたい、と思ったのは…兄さんが教員免許を持っていないからって言ったら、軽蔑しますか?」
キーボードを操る指を少しだけ止めて、蛭魔は告げた。
「……テメーに教師は向いてねえよ」
和華は一瞬目を丸くしたが、実はそう言われるのを待っていた、とふんわり笑う。
「ありがとうございます。
私もそう思ってたんです。……でも、誰も言ってくれなかった」
彼女の外面を見ているものたちは、彼女をいい教師だと思う。
そして、彼女に親しいモノたちは、彼女の努力ゆえに、それを言うことはしなかったのだろう。
「教育実習が終わったら、諦めます。
全部、忘れます」
蛭魔の目を見て、言った。
「ったく、うざってぇ。
失くしたモノ、見つけたいのか?欲しくないのか?」
和華はゆっくりと目を閉じた。
兄さんがくれた上等な時計……それが完全でないと知ったら、きっと、兄さんは悲しそうな顔をする…それを思い浮かべた。
「見つけたい。
……私、実はこの時計気に入ってるんです」
「正直だな…」
半分あきれたように蛭魔は言い、そして小さな六角のネジのようなものを床から拾い上げた、
時計の、時間を合わせるパーツは、まさに和華が失くしたものだった。
「ありがとうございます。
……蛭魔さんはいつも、私の大切なものを見つけてくれますね」
また小さく彼女は笑った。
HR終了のチャイムが鳴った。
じきに部員たちも集まってくるな、と蛭魔は顔を上げた。
その途端に、部室の扉が開く。
そこにいたのは、部員の誰でもなかった。
「兄……さん…?」
和華の口がそうつぶやくのが聞こえた。
彼女の兄と顔をあわせるのは二度目だったが、……蛭魔と目が合うと少し嫌そうに顔をゆがめた。
長身の男は、黒のスーツを隙無く着こなして忙しなく腕時計に目をやった。
……彼女と同じブランドであることに蛭魔は気づく。
「……どうしたんですか?」
「帰る準備をして…レポートは明日でいいそうだ」
手回しの良さに戸惑って、和華は顔をしかめた。
彼女の兄は、和華と視線を合わせようとしなかった。
一方、和華は兄の表情をとらえようと首を傾ける。
「……?」
「お祖父さんの手術がもうすぐ終わる」
兄の手で、彼女の鞄に散らばったノートが詰め込まれていく。
「?」
「……大腸に腫瘍が見つかって、転移したものを今日手術しているんだ。
病院には、父さんも涼子さんも……みんなで手術の結果を待っている」
和華から力が抜けて…そしてなんとか立っていようと壁に頼ったのが分かった。
貫くような視線の強さで兄を見ている。
「……わたし……聞いてません。
私だけ?私だけ知らなかったんですか?」
壁についた手が強く握りしめられ、怒りで震えているらしかった。
「そうだ、私が和華の研究授業が終わるまでは隠していた」
和華は、大股で兄に詰め寄り、彼のタイを引っ張った。
長身の兄は、目をつむり、おとなしくされるがままになっている。
「……いい訳するつもりはないよ。
和華には教育実習に集中して欲しかった」
「……!
お祖父さんが、お祖父さんがもし……
会えなかったら……」
「執刀は、日本の名医と呼ばれている人だ。
大丈夫」
「そういう問題じゃ…ありません。
どうして?どうして兄さんはいつも私を仲間はずれにするの?
会社だって、兄さんだけが手伝って私は蚊帳の外。
私に必要なものは、全部兄さんが与えてくれた。
由弥先生を見つけてくれたのも兄さん、小学校も中学校も卒業できたのも、高校が楽しかったのも、兄さんが手回ししてくれたから。
私の人生は、兄さんが全部決めてくれた。全て最善に。
……でもどうして?
どうして私をコントロールしたがるんですか?」
彼女の兄は何も言わずに、ゆっくりと目を開けた。
穏やかすぎる瞳と目が合うと、和華は反論できずに手を緩める。
兄は少しだけすまなそうに微笑むと、詰め込み終わった彼女の鞄を閉じる。
真実は、すぐ側にあることを蛭魔は知っていた。
それを告げれば、和華が自分を見なくなる可能性も…。
「教えてやろうか?」
言うな、と彼の心が言っていた。
彼女の兄である男の視線もまた……。
その真実を告げた時の兄の表情で、蛭魔は確信を持った。
「北条時夜はお前だろ?」
一瞬目を伏せた兄は、諦めたように小さくため息をついた。
「勘違いしないで欲しい」
兄は蛭魔に向かって言ったが、その実、和華に言い聞かせていた。
「和華のような鮮明な記憶は私にはない。
私は、私、辰巳義和だ。
小さい頃聞いたおとぎ話……それに混じった一つの物語だと思っていた。
和華が話す記憶と照らし合わせて、自分のそれが北条時夜に関する物語だと推測しただけだ」
和華は、兄ではなく蛭魔を見つめていた。
人形のようなうつろな瞳で、ただ彼に「何故?」と訴えていた。
何故分かったの?何故そんなことを言うの?
ただ混乱して、兄を凝視できないだけなのかもしれない、しかし今だ自分に向けられたままの視線が蛭魔には嬉しかった。
おそらく、彼女は自分がどんな表情なのか覚えてはいないだろう。
ならば、俺だけでも……と蛭魔は視線をはずすことはしなかった。
「……行こう」
兄に手を引かれて部室を出て行くまで、和華はずっと彼を見ていた。
本文中に出てくる時計ブランド名も、勿論ふぃくしょんですが、時計の部位をなくしたのは管理人の実話です。
どーしよ。と思いつつ行動起こしてないなァ。
……なんつーか、まだ九月?もう九月?なのか、今年中にやらなきぃけない目標が多すぎる。
あと3ヶ月なんだよね、今年も。
そう考えると、もう九月か。そろそろ、衣替えはじめなきゃ。
ちょっとは解説。
と、いうわけでちょっとずつ前世のなぞなぞが解けてきました。
兄の過保護さはそこからきております。
前世との記憶の違いですが、
和華が「私は彼女」と言い切るのに対して、
兄は「私は時夜ではない」と言い切る。
義和の方はあくまで「他人」として理解しているのに対して、
和華は自分の一部あるいは片割れであると理解しています。
そういう、違いです。
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