第21話
まぶたさえ重い、そんな最悪の目覚めだった。
いつものクセで、時間を確認しようと枕もとの携帯を手に取る。
真っ暗な画面に、あの飲み会の後すぐに電源を切ったままだったと和華は思い出した。
相変わらずベッドに横になったまま、携帯を投げ捨てると寝室にある目覚まし時計と目が合った。
1時……それも午後の。
教育実習中で十分寝ていなかったとはいえ、寝すぎだと彼女は後悔する。
そう、研究授業も成功だったし、生徒たちともいい関係だった。
後悔なんてするはずがないのに、心残りがある。その原因も、彼女自身分かっていた。
目を閉じると、ちらつく金色が、どうしようもなくやるせなさと苛立ちを引き起こす。
全てを捨てても欲しいと、一瞬でも思ってしまった。
「何もしたくない」
口に出すと、本気でそう思えてきて和華はもう一度布団にくるまった。
顔だけ布団から出して、手も足もできるだけ小さくまげて縮こまる。
彼女は、両極端な心を抱えていた。
携帯の電源を付けなきゃな、と思いながらそれでも着信があったときにどうすればいいのか分からなかった。
居留守も、着信の拒否なんてできるはずもないのに、いつものような応答の自信もない。
実習が終わったというのに実家に帰らないし、連絡もないのでは、家族が心配しているかもしれない。
「もうどうでもいい」
今の自分を肯定するように、声に出した。
さらに体を丸めると、自分が本当に小さな存在に思える。
「……コ…ロ……して」
今度は無意識に言葉が出た。
言葉の意味を理解した和華は、遅れてハッと目を見開き、そして大きくため息をつく。
人が、悲しみに暮れるときに思うことは人それぞれ。何かに責任転嫁したり、落ち込む自分に酔ったり……。
和華の場合は、この世に起こっている不幸が全て自分に降りかかればいいのにと思うのだった。
卑怯だ、と和華は自身を責めた。前世の「彼女」があんなに必死に守った命を投げ出そうとすることは非常に罪深いことだ。生きられなかった時夜
でさえ、辰巳一族の平穏を守るために命を差し出したのだ。
だから自分は、「死にたい」とは願えない「殺して…」と願う。けれど、結局同じことだ。……殺人の罪を他者に背負わせるのだから、さらに罪深いこ
となのかもしれない。勿論、和華は承知していた。
けれども、願ってしまう。そういう自分の弱さが許せなかった。
想いを振り払うように、彼女は大袈裟にため息をつく。
体がだるかった。昨夜のアルコールが抜け切らないのか、体温も高い気がする。
お腹がすいた気がする………そういえば、飲み会では何も食べなかったんだった、とも思い出した。
水を飲んだ後、とりあえずシャワーでも浴びようと彼女は相変わらず重い体を起こした。
冷蔵庫の取っ手に手をかけたところで、聞きなれないインターホン音に彼女は大袈裟に反応した。
この住所を知っているのは、和華の気の置けない友人だけだし、彼らも前触れ無しに押しかけてくることはない。
インターホンには、「共通玄関」というランプがともっていた。
部屋の前とは別の、建物の玄関からの訪問者という意味である。
ここのマンションは、セキュリティが厳しい。
管理人を兼ねた警備会社が24時間常駐している。
訪問販売、勧誘など中には入れないし、宅配や引越し業者などもきちんとチェックされる。
インターホンがなるということは、彼らのチェックを受けてきたということだが……。
目覚めたばかりの頭をなんとか働かせ、和華は考えた。
郵便物も宅急便も、届く予定はない。
では…兄か、洋子か、ユウか…涼子か。
恐る恐る和華はインターホンに出ると、彼女が思いつくはずもない最悪の事態であることが分かった。
「蛭魔さん……どうして…」
和華の方からは彼が見えるが、彼からは見えるはずはない。
しかし、画面の中の蛭魔はまっすぐに睨んでおり、和華は自分が追い詰められているように感じた。
このままインターホンを無視し続けることもできた。
しかし、どんなことをしてでも彼が侵入してくることは容易に予想でき、彼女は仕方なく受話器をとった。
「何か御用ですか?」
できるだけ冷たい声を出そうとしたが、喉はからからで、発せられた声を和華は嫌悪した。
「開けろ」
「できません」
即答しておいて、胸が苦しくなるのを感じた。
「……忘れ物」
「でしたら、後日また学校に伺い…」
「テメーのじゃねえ、俺のだ」
「……?……」
彼の意図することが掴めなくて、和華は顔をしかめた。
「開錠」のボタンさえ押さずに拒否の姿勢を続ければ、蛭魔とてそれを踏みにじるようなことはしまい。
条件は、自分に有利だと知りながらも、和華は内心おびえていた。
勝てない予感がしていた。
「……雨降ってきた」
そういって蛭魔は空を見上げた。
つられて彼女も窓の外を見るが、青い空が見えた。
「……ウソは、ダメです」
「ウソじゃねぇよ」
彼は口の端でニヤリと笑うと、防犯カメラに見せ付けるように、部活で使っているバッグの中からスポーツドリンクの入ったペットボトルを取り出し
た。
「ホラな……」
歯で器用にキャップを外すと、そのまま頭からかぶった。
画面の中の彼は相変わらずニヤリと笑っていた。
エレベーターが開き、自分の目を通して蛭魔の姿をとらえてやっと、これが現実の出来事であると実感できた。当の蛭魔はというと、和華の手の中
にあったバスタオルを奪うように取り、目もあわさずに早足で彼女の部屋に向かう。
そしてためらいなどなく、扉を開けると乱雑に靴を脱ぎ捨てた。
慌てたのは彼女の方で、どんどんと自分のテルトリー内に侵入していく蛭魔を止めようと追いかける。
バスルームの場所を示す前に、蛭魔は乱雑に髪を拭きながら、その方向へと向かっていた。
「くっそ、ベタベタしやがる」
和華は諦めたように、大きくため息を一つつく。
もはや彼に何を言っても無駄に違いない。こうなれば、彼の用件が済むのを待ち、一刻も早く家から立ち去ってもらうしかない。
脱衣所のすぐ横の廊下にもたれかかっていると、扉が30センチほど開いて紙の束が投げられた。
「出てくるまでに目ェ通しとけ」
すぐに扉はぴしゃりと閉まり、シャワーの水音が聞こえてきた。
「自分勝手すぎます!…………うらやましいくらい」
小さくつぶやいて、和華は紙の束を手に取った。
蛭魔の傍若無人なふるまいに、人々が従ってしまうのは脅迫や彼の容姿以外にも、彼の行動に何か理由がありそうだからなのかもしれない、と
彼女は結論付けてリビングのソファに腰を下ろしてそれをめくり始めた。
和華には、それらに見覚えがあった。
「辰巳家…家系図」
何系等かに区分される辰巳氏の家系図、それらの代表的なものの中で、執権北条時盛の時代、文永の役より前が抜粋されている。
さらにめくると赤線が引かれている部分があった。
「……宗朝さま」
頼朝に従い、鎌倉幕府創生に尽力したその名に線が引かれていた。
蛭魔は何を思ってこれを渡したのか。
ぱらぱらとめくってみたが、これらの家系図のコピーは既に和華の手元にあった。
『彼女』の名が知りたくて、辰巳氏に関する家系図は手当たり次第に全て調べてあった。
しかし、当時の女性の名はほぼ残らない。あったとしても嫡男誰々の母、や誰々の娘という記述にとどまる。
和華が再びページをめくると、また赤線があった。
女……そしてその横の「由宗」そう書かれた部分に引かれており、和華にはそれが『彼女』であると分かった。
当時、辰巳氏の間では、北条時夜は補佐という形であり、後を継いだのは彼女の弟である由宗とされた。
しかし、在任が短かったため、家系図によっては由宗の名もはぶかれることがあった。
赤線の引かれた部分を人差し指でなぞりながら、確かに、ここに彼女と弟がいたのだと和華は嬉しかった。
ふと違和感を感じて振り向くと、いつのまにシャワーを終えたのか蛭魔が立っていた。
彼は遠慮するそぶりも見せず、ソファーの隣に座り、長い足を組んだ。
隣から風呂上りの香りで、和華は昨日シャワーも浴びずに寝てしまったことを思い出した。
鏡を見ていないが髪だってぼさぼさだろうし、化粧は昨日のままだ…とかく体面を気にする和華はそんな姿を他人にさらしていると思うと自分にも
そしてこの状況を作った彼にも腹が立ってきた。
「……それで、…ご用件は?」
早く済ませたい、そんな和華の気持ちとは逆に蛭魔は余裕たっぷりであった。
髪にタオルを当てながら、和華から家系図を取った。
「宗信改め、宗朝と名乗る」
蛭魔が読んだのは、名の横に注記された部分だった。
「はい。功績を認められて、頼朝さまから『朝』の字をいただいた……これは『鏡』にも書かれています」
『彼女』の記憶ではなく、一応資料に裏付けられた事実であることを強調したくて和華は話した。
「宗朝以降、嫡子だけが通字である『宗』を許される」
再び蛭魔は声に出す。
和華は首をかしげながらも説明を求められているのだと解釈した。
「ええ。弟は…………由宗と名乗りました。そういえば、叔父上の名は……」
『彼女』の弟に吹聴し、北条時夜抹殺を企て、辰巳家を掌握しようとした叔父、その名を探そうと和華は由宗から指をなぞってさかのぼる。
和華の指は、上へたどり、彼女と弟の父である宗政を指差しそして、その兄である……
「泰信…やす、のぶ」
その名を口にした途端に和華に寒気が走り、腕に立つ鳥肌を沈めるように和華は腕をさすった。
「……でも、叔父上の名が分かったからといって、『彼女』の名は分かりません。
私、彼女について、知りたいから、日本史を専攻しました。
でも、いまだに名前さえ分からない」
「……ったく、テメーらは史実史実って証拠求めすぎなんだよ。
もっとシンプルに頭使え」
「しょうがないじゃないですか、それが現代歴史学なんです」
「弟が病弱で、テメーが家督を継ぐって線はねえのか?」
「え?……
読み書きからまつりごと、貴族の年中行事…騎馬、弓、刀、槍……私、弟の代わりだと思ってやってました。だって……
……そう、宗朝さまに呼ばれたことがあって。
父が病気をして私たち以外の子はもう望めないと分かった時に…弟が成人するまで、私が弟の代わりになりなさい、と。
私、うなづきました。そして数日後、後継を弟として由宗の名が与えられた……」
「だが、本来星辰に認められた後継はテメーだった。痣がその証」
「……宗朝さまはそれを見て……」
右肩を抑える。
「…………男でないものに『宗』の字はあげられないと…」
「だから……もう一方の字を与えたんじゃねえか」
目を見張るが、和華は何も言うことができなかった。
ただ、彼に導かれる結論を感じて、体を震わせた。
「それに当時の女の一般的な名……とするなら」
蛭魔はそこで口をつぐんだ。
目を見つめて、ゆっくりと彼女が答えを出すのを根気よく待つ。
やがて、顔を上げた和華は不安げに名をつぶやいた。
「朝……子……?」
それを口にした途端、和華にはそれが正解であることが本能的に分かった。
「あさこ……」
確信を深めるためにもう一度名をつぶやく。
自分にある記憶は、朝子という女性のもの。
小さい頃は武芸を学んで、栗毛の馬に乗り、弓を学び……そして弟に全てを譲り、世情と離れる形で星辰の巫女となった朝子。
けれど、星辰の巫女たちが積み重ねてきた嘘を、自ら巫女頭となり背負うこととなる。
いわば人質ともいえた北条時夜に好意を抱きつつも、星辰の巫女として、全ての感情を鉄壁に隠すことにこだわった朝子。
朝子の人生が走馬灯のように、和華の中に湧いてきて、同時に深い眠気を感じていた。
和華はその眠気に逆らおうとはせず、またソファに体をあずけていった。
彼女が眠りに落ちていくのを引き止めるように、蛭魔に左肩を掴まれる。
襟ぐりをつかまれて、そのまま引っ張られる。
鎖骨が露出していくが、和華は虚ろな瞳でそれを容認しているようだった。
肩に三日月型をした痣を見つけると、蛭魔は襟ぐりから手を離し、両肩を掴んで彼女の体をゆすった。
「いいか?俺はテメーの名を取り戻した恩人だ」
至近距離で響く彼の声は、ダイレクトに和華の脳に伝わった。
焦点の合わない目で蛭魔をみつめながら、催眠術ってこんな感じかしらと和華は思った。
「俺に惚れろ」
(ああ、やっぱり催眠術だ…だから私はこの人が好きなんだ)
和華は小さくうなづいて、そのまま目を閉じた。
|