春。
冷たさの残る風が頬を撫ぜ、彼女はそれにつられるように視線を動かした。
読んでいた書物はそのままに立ち上がると、引き寄せられるように障子を開く。
春、の証が見たかったのだ。
社の外に植えられた桜は、つぼみをふくらませ、開花の時を待ち構えていた。
「……気づかなかった…」
社に篭る生活から季節の変化に疎くなったのかもしれない、と彼女は思う。
社を取り囲んでいる生垣の外で、童たちが楽しそうに走っていた。
「巫女頭さまだ」
「みこさまぁ〜」
巫女の姿を見つけると、童は無垢な笑顔を向けた。
無性に逃げたくなる気持ちを抑えて、彼女は小さく頭を下げた。
彼女は童に微笑みかえすことはできない。
星辰の巫女である彼女は、神も同じ。
彼女の微笑みは神の加護の象徴。
しかし、神の加護は平等でなければならない。
彼女の感情の変化は神の心。
よって、感情をあらわすことは許されない……彼女はそう信じていた。
「…?」
「母さま、巫女さま笑わない」
「巫女頭様は星辰さまにお仕えしているからね」
童の悲しそうな表情が、彼女を苦しめた。
童が去ったのを見て、心内でほっとし、また後悔もした。
(……春など、探さなければ良かった)
襖がゆっくりと開き、予期せぬ訪問者が現れたが、彼女は眉一つ動かさなかった。
「若姫」
「……子はもはやそう呼ばれぬ」
「失礼。侍従たちがあなたをそう呼んでいるので」
悪びれるわけでもなく、男は笑った。
側室の子とはいえ、北条の末に生まれた彼は、お家騒動や跡継ぎ争いから逃れるために武家とは無縁な貴族の家で育てられた。
彼が武家と朝廷、貴族の内情に精通していることは辰巳家にとってプラスとなっているのだが、北条時夜の武士らしくない部分が彼女は苦手であ
った。
「花が咲きましたので。
社に篭られては、春の近づきにも気づかないだろうと」
時夜はそう言って菜の花を差し出す。
(春など、探さなければ良かった……
無償の愛。
童の微笑みと同じ。
子には、それに微笑み返すこともできないのだ)
「油を取り、残ったものは畑にまきなさい」
彼の、微笑みもまた同じだと巫女は思った。
結局、答えることはできないのだと…。
「なんとつれなし。
しかし、油がこんな綺麗な花から取れるとは、知りませんでした」
畑一面が橙に染まっていました、とうれしそうに彼は言う。
「……用がないなら、お帰り下さい」
彼女は再び書物に視線を戻すと、時夜の顔も見ずに言った。
「どうやら機嫌を損ねてしまったみたいですね」
「子には感情がない。
機嫌を損ねることもありえない」
「……そうですか?
童たちを見ていたあなたは、辛そうでしたよ?」
「ほら、今は睨んだ。はははは」
「星辰の巫女頭を冒涜するならば、子は怒ろう」
星辰の神の意思として、と付け加えた。
「……あなた方の叔父上さまが、若弟君と頻繁に会っているようです」
「……!」
「それも深夜、一目を避けるようにして」
「…叔父上が?辰巳家の当主は弟の由宗が継いだと言うのに……いまさら何を」
彼女は眉間にしわをよせて考え込む。
(何か謀(はかりごと)を?
……叔父上といえども、いざとなれば巫女頭として処分せねばなるまいか…)
辰巳氏にとって星辰の巫女の存在は大きかった。
彼女たちは辰巳家の節目に、裏から政治をあやつることも行なってきたのだ。
「…ふふ。若弟君のこととなると、真剣になるのですね」
当たり前だ、とでも言うように巫女は時夜を見つめた。
「……知ってますよ。
あなたは星辰の巫女。辰巳家のためだけに生きる存在。感情はあらわさない。
その家紋と同じく、昼は太陽が、夜は月と星が辰巳家を見守っている……いえ、見張っているともいえますね」
家紋と同じ痣を、彼女は持っていた。
いまや、時夜にもある。
北条を憎んでいた辰巳一族に、彼を認めさせるために彼女が作ったニセの痣。
辰巳家が生き残るためには、北条時夜と共存するしかなかった。
「……いつか」
しかし、同じ偽りの罪を背負う時夜は、彼女にとって特別な存在となりかけていた。
「月も星も無い晩には、笑ってくれますか?」
その後。
自らの弟をその手にかけた晩。時夜が彼女の前で焼かれた晩。
彼女は後悔することとなる。
(……約束など、しなければ良かった)
多少ブランク開いてるんで、どこか設定と違ったらごめんなさい。
朝子=若姫→巫女頭。弟は若弟君と呼ばれていました。
時夜の記憶を持つ兄が彼女の名を知らなかったのも、彼らが出会ったときにはすでに名を捨てて巫女となっていたからです。
前世の朝子と和華があまりに性格違いますが、
巫女となる前の朝子は今の和華に近かったのかと思ってます。
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