Bar Musasi 3
>SAYA
頬をなでていく風が心地よかった。
特に何も無いのに、自分は今微笑んでいる気がする。
前にこの道を歩いていた時は、ずぶぬれで下ばかり向いて、雨の溜まったスニーカーが歩くたびにぐちょぐちょと不快な音を立てていた。
それなのに今日はどうだろう、夜空には輝いているのは、ほぼ満月だし、灰色の細長い雲は風流だし、もうすぐムサシさんに会えるし。
なるべくいつものペースで歩こうとしても、足取りは軽かった。
そう。
私は、店内に他のお客さんがいるなんて考えてもいなかったのだ。
>MUSASHI
ふっと風が通った気がして、顔をあげると店の入り口の扉が15センチほど開いていた。
「?」
カウンター越しでも、俺が作業を止めたのに気づいたらしい和華は、器用に体半分だけ振り返って、俺の視線の先、表の扉を見た。
その15センチの隙間に目を凝らすと、人の頭らしきものが見える。
「いらっしゃいませ」
俺より先に、慣れた口調で和華が言った。
突然声をかけられて驚いたのだろう。扉ごとビクっと震えて、隙間は一瞬5センチほどになった。
しかし意を決したのか、ゆっくりと音をたてて扉が開かれ、見覚えのある彼女が現れた。
ああ、あのひどい雨の日の…名前は…なんて言ったっけ。
あのずぶぬれの時の印象が強いからか、今日は酷く普通に見える。
短い髪にすらりと伸びたまっすぐな足。どこか少年のような印象を受けるのは変わらないが、今日はむき出しになっている肩や、鎖骨のあたりはど
うみても女の体だった。
うちの狭い店内を歩くのにどうやったらそんなに時間をかけられるのか分からないが、彼女はひどくゆっくりと歩き、カウンター席の端から端に視線
をめぐらせ、座る席を選んでいるようだった。
「初めまして」
和華は営業スマイルを浮かべて、右手で自分の3つ隣の席を勧めた。
(?)
辰巳和華という人物は、非常になれなれしく、それでいてそれを自然にしちまうテクニックも持っている。
だから、自分の隣の席を勧めるのが自然だと思った。
彼女がイスに座ったのを確認してから、和華は口を開いた。
「わたし、辰巳和華といいます」
イス3つ分離れたビミョウな距離感で、和華は首だけ向けて挨拶した。
「和華って呼んで下さいね」
にっこり微笑む。
「サヤ……です」
(…!!)
驚いたことに、彼女は名を問われる前に自分から告げた。
伏せ目がちなのは変わらないが、首は和華の方に向けている。
(そうだ、「サヤ」だった。
とにかく始終緊張してて、名前を聞きだすのもやっとだった…思い出したぜ)
しかし俺の時と、初対面の時の反応がこれほど違うのは、
…同性だからか、それとも……。
なるほどな、椅子3つ分が、
サヤが緊張しねぇ距離感……ってことなんだろうな。
「髪の色ステキですね。アッシュ系?」
こころなしか、和華の言葉は相当ゆっくりに感じられる。
サヤはうなづいて、
「じぶんで……やってるの」
「すごいね。アッシュ系って色落ちしやすいんだよね」
「うん。一ヶ月くらい……私痛んでるし」
二人の話す速度、ペースが同じくらいなことに気づいた
……それが分かったからって俺に和華のマネできるわけはねーし。
なんかちょっと腹立ってきた。
「ああ。ごめんなさいないがしろにして」
面白おかしく嫌味みたいに言うから、サヤが横でクスリと笑った。
そういや、こんな風に笑うのを見るのも初めてだ。
「こちらサヤちゃんです、よろしく」
「…知ってる」
「え?…知りあいだったんですか?」
悪かったな、そう見えなくて。
言葉にはせず、和華を一睨みする。
「あの…コレ……こないだの」
「…わざわざ悪いな」
サヤが恐る恐る差し出すタオルを受け取りながら、どこか恐喝みたいだなと思う。
ぎこちないやり取りを見ていた和華が秘密の話をするように右手を口元に添え、しかしサヤにも十分聞こえる声で言う。
「彼氏いるか聞いてあげましょうか?」
サービス精神からか、サヤは見事に顔を赤くしてうつむいた。
>SAYA
―今はいないんですよ―
普通の女の子なら笑ってそういう場面かもしれない。
けれど、私にできるのはムサシさんとは絶対に目が合わないように下を向いていることだけだった。
「ちなみにムサシさんはこう見えても独身です」
「……」
「冗談ですよ」
和華さんの声は狭い店内に心地よく響いた。
決して大きい声じゃないのによく響く……周りの空気を味方につけて、振動させているのだ。
和華さんが笑うと、まるで髪も笑うみたいに緩やかに揺れた。
前髪はさっきセットしたみたいに完璧だし、肩甲骨あたりまで落ちるベージュの髪は、少し薄暗い店内でもつややかに光っている。
完璧な女の子……その上、おしゃべりも上手い。
…きっとこの人にはコンプレックスなんて無いんだろう、もしあったとしても私から見ればどうでもいいような小さいものに違いない。
私には無いものだらけで、そう思うと妬みたくなる。
でも、何故かそういう妬みも消してしまうような魅力を感じていた。
何よりこの私が、この人となら楽しくおしゃべりできる気がしてるのだ。
「もう、そんなマジな目で睨まないで……って、わわっ」
突然カウンター越しに和華さんに差し出されたのは、おにぎりが二つのったお皿。
「……どーせ今日も飯食ってないんだろ」
私の目は、おにぎりに向けられたまま固まってしまった。
―特別な客にしか出さないとっておきだ―
ついこないだムサシさんの言った言葉が頭の中でこだましている。
特別?とっておき?
……和華さんも?
―私だけ、なんてあるはずなかったでしょ―
3分前の私にそう言ってあげたい。
3分後の私は期待したことを後悔してると。
顔に出る性格も、後悔してる。
必死に私は下を向いているけど、きっと私の思考は全部顔に出ちゃってる。
どうかこの薄暗さで、二人が気づきませんように。
差し出されたお皿を困ったように見つめていた和華さんは、大きな瞳をお皿から逸らした。
「糖分はこっちでとる主義なんです」
和華さんは差し出されたお皿は手に取らず、ビールの入ったジョッキを持ち上げた。
ムサシさんは飽きれたため息を一つつき、もう一度お皿を強引に勧めた。
「……後で俺が蛭魔に言われるんだよ」
あれあれ?主役和華にとられてます?
……と思いつつ後半へつづきます。
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