Side Musasi
「こんばんわ」
扉が軋む音とともに、見知った顔が現れた。 「……らっしゃい」 決まり文句で声をかけるが、彼女はカウンターにいる俺と目もあわさない。 何気ないそぶりで、しかし慎重に薄暗い店内を見渡し、他に客の姿がないことを確認して、やっといつもの彼女に戻る。 「わ。暇ですね〜! ムサシさん」 うれしそうに言う彼女は、少々舌足らずな少年のような声に変わっていた。 「……何をいってんだか…。 客が少ない時間選んでんだろ?」 彼女は、たいてい空いている時を狙ってやってくる。 軽い二重人格のようなもので、他の客がいるときといないときと、背筋やら声のトーンやら、話す内容やらが変わるのだ。 「はぁ〜疲れた」 左端から三つ目のカウンター席。いつもの定位置に座り、カウンターに両肘をつく。 「飲んでるのか?」 「……うん。結婚式と二次会を3軒…」 テーブルに突っ伏したまま言う。 (そんな未練たらたらで言うくらいなら、行かなきゃいい……) しかし、正論を聞きたい客ばかりじゃない。とかく、自身で理解していればなおさらだ。 それが、俺がこのバイトを始めて学んだことの一つだ。 「……それでその格好か。 んな薄着でうろついてると、どこぞの店の女と間違われるぞ」 一瞬、口をすぼめて不愉快そうな顔をするが、すぐに何かいたずらを思いついたような含み笑いをする。 何をするのかと思えば、羽織っていたショールを緩めて、右肩口だけ見せてポーズを取って見せた。 「なんなら雇ってくれますか?」 「……だから俺はただのバイトだって」 「見えない。 私より年下にも見えない」 「……そりゃお前さんの方もだろ」 ワンピースドレスなんて着ている今日は、20歳という年相応に見えなくもないが、普段の彼女はこの辺の店で酒を飲むのも身分証の提示が求め られそうだ。 ……あ、それでうちの常連なのか。 彼女のボトルは棚の一番端にひっそりと置いてあった。 火のつくような酒が彼女の好みで、ロックでなければ味は分からないと述べるつわものだ。 ロックグラスに丸い氷…中心にはライムジャムを入れて一緒に凍らせてある、その大きな氷を一つ入れて、豪快に透明な酒を注ぐ。 彼女の前にグラスを置いてやると、右手で持ち上げ大きな目を輝かせて底を覗いた。 「わ。綺麗」 中に仕掛けのある氷を出すのは初めてではなかったが、それが特別な時にしか出さないものだと彼女も知っていた。 微笑んだ彼女は小さな両手でロックグラスを包むように触れる。 体中が嬉しさで満たされている、それを素直に現す彼女が好きだった。 「まだだ」 彼女がグラスに口をつけようとしたところを声で制す。 「どーせ飲んだだけで何も食ってねえんだろ? 何か腹入れてから飲め」 「ええええ」 「氷もすぐには溶けねぇぜ」 「ううう……」 再びぐったりとうなだれて、うらめしそうに目の前においてじっと見つめている。 大酒飲みが暴れださないうちに、手早くつまみを用意することにする。 バーカウンターの中には簡易コンロが一つあり、簡単な調理ならできるようになっていた。 網をのせて、コンロの火をつける。 醤油を塗って、そこに置き……香ばしい匂いがして焼き目がついたら裏返して、そちらも同様に…。 「うわ。おいしそうな匂い〜」 飢えた小動物が、カウンターを乗り越えん勢いで身を乗り出してくる。 「待てって。今出す」 慌てて皿に盛り、箸と一緒に出してやる。 彼女は目を閉じて手を合わせた。 「いっただきます。 ……あつ…あつ……おいしい」 満足そうにほおばる彼女を見て、俺も口元が緩んだ。 「ムサシさんのおむすびは焼いても絶妙の結び加減!」 「……それしか作れんからな」 「未だに想像できないんですけどね、にぎってる姿」 まあ、そんなとこ誰も見せたくないが。 彼女がグラスを上げて合図する……もう空けたのか、このザル女は。 「乾杯してください」 空になったロックグラスに注いでやり、自分の手元においてあるショットグラス(中身は勿論茶だ)小さなそれを上げながら問う。 「……何に?」 考えていなかった、とばかりに目を泳がせたので、「3組の新郎新婦に」と助け舟を出そうとすると、彼女はにっこり微笑んで言った。 「焼きおにぎりとジンに」 顔には一切でないが、彼女はすでに酔っているのかもしれない。
Side Waka
「……さ、閉めるか」
「早く帰らないと妻子が待ってますもんね、……ふふ」 どこか貫禄さえ感じられるバーテンダーは無言で私を一睨みしてからカウンターを出る……冗談が通じないんだから。 彼の後ろ姿を見送りながら、気づかれないように頬に手を当てた。 赤くはなっていないと思うが……少しほろ酔いかもしれない。 腕時計に目をやれば11時30分。 終電もあるし、何より未成年である彼を遅くまでつなぎとめるわけにはいかない。 この一杯で終わろうとグラスに口をつけた。 「お、おい…」 閉店の看板を出していたムサシさんの声が聞こえ、その尋常じゃない響きに私は思わず立ち上がった。 「……おい、ヒルマ」 ムサシさんが店の中へ引き揚げるように入れた人物は、かなりぐったりとしていて、もはや自分の力では歩けないようだった。 その人の、一番最初に目に入ったのは金色に染められた髪だった。 かなり乱雑に乱れていたが、もとは綺麗に整えられていたことが想像できた。 ムサシさんが肩を貸して店の奥……カウンターの中へ引き入れ、壁に背をあずけるように、慎重に座らせた。 どうやらムサシさんの知り合いのようだが、普通のお客さんという風には見えない。 「……くっ」 その人物は、金色の髪を振り、低い声でうめいて右腕を抑える。 「……テメー」 「……俺としたことが…しくじった」 「……くそっ」 二人だけ分かる会話を続ける。 ムサシさんが傷をみようと彼の黒いトレンチコートを脱がせようとすると、一瞬の抵抗の後、金髪の彼は従った。 「あっ……」 ムサシさんが顔をしかめると同時に私は声をあげた。 店内は薄暗くすぐには分からなかったが、彼の黒いコートはほとんど血で濡れている。 「救急車……きゅう」 呪文のようにつぶやくが、ムサシさんはかぶりを振る。 神妙な顔からして、公にはできないのかもしれない。 「心配ねぇ。……掠っただけだ」 しかし、素人目に見ても、放っておける傷でないことは明らかだ。 「……それならお医者さん…… ちょっと待って下さい」 言うなり私の頭に浮かんだ人がいた。
長年私の主治医をしているお医者さん…小児科医だが、この際細かいことはどうでもいい。だいたい私は神経科でかかっているのだし……。
バッグから携帯を取り出し、手早くダイヤルする……出てくれるだろうか……。
「……和華さんですね? どうかしましたか?」 考えているうちに、聞きなれた声が出る。留守電ではないことにほっとした。 「由さん由さん! 怪我人なの!……でも救急車はダメって…どうしよう!」 「……とりあえず落ち着いて、 側に誰か事情に詳しい人は?」 ムサシさんを見上げると、私は無言で携帯を渡した。 「……はい。 3丁目の店で、傷は銃創だ。掠っただけのようだが、出血がひどい」 「……ああ、場所は和華が。 車がある。……10分以内には出発できるだろう…」 大量の血を見て混乱している私だったが、ムサシさんの低く響く声を聞いて少し落ち着いてきた。 「……私は?」 彼が通話を終えたのを見計らって問う。 「とりあえず止血だ。 車をとってくる。五分ほどだ。 病院の場所は知っているな?道案内を頼む」 そういうと、着けていたサロンとネクタイをすばやく解き私に投げた。 「和華!」 「……は、はい」 名前で呼ばれたのは初めてだったが、反射的に答えていた。 「……」 一瞬だけ目があって、そのままムサシさんは裏口から飛び出していった。 彼は何も言わなかったが、その強い視線からは「死なせるな」と伝わってきた。 とりあえず止血しなきゃ。 カウンターに置いてあったコートを取り、彼の足にかけた。 何か使えそうなものはないか自分のバッグの中を漁りながら彼に問いかける。 「どうも〜。 辰巳和華と申します。 確かヒルマさんって呼ばれてましたよね〜あ、ハンカチ発見」 良かった。ブランドのハンカチだからかなり大判だ……見栄っ張りもたまには役に立つ。 止血の意味を必死で考えつつ、口は世間話を続ける。 大量の出血を見て震えそうな自分と闘うためでもあり、少しでも彼の痛みがごまかせればと願って。 「えっとこの店の一応常連なんです。 はい、縛ります。ちょっと痛いですよ」 言うや否や力をこめてハンカチを絞る。 彼はほんの少し眉を動かしただけだった。 ……反応の弱さに少し不安になる。 「痛いですかー? そりゃ痛いですよね、あはは」 「……ふざけてんのかテメー」 「あ、良かった生きてる」 しかし、かすれた声に強さはなかった。 ムサシさんが早く来てくれることを祈るしかないが……。 次の話題を探していると、それまで虚ろだった彼の目が一瞬鋭く光る。 その次の瞬間ドアを叩く音に、私たちは身をこわばらせた。 ドンドン…… ……ドンドン ムサシさんならば裏口から入ってくるだろうし、閉店の看板は出ているからお客さんではない……。 ドンドンドン…… …ドンドンドン… その音は回数と強さを増している。 開けなければ鍵を壊してでも侵入してきそうだ。 …どうすれば。 ふと自分のカッコを見て、ムサシさんの言ったことを思い出した。 迷っているヒマはない、一刻を争う時だ…不安だが、かけるしかない。 「私、最高記録5分35秒です。 ……だから、3分だけ我慢してください」 小声で彼に伝えると、重い冷凍庫の扉を開き、金髪の彼をコートや私のバッグもろとも押し込んだ。 床を見回して、血の跡だけ確認する…大丈夫、ない。 ゆっくり息を吸って、一度笑顔を作ってから鍵を開いた。 「もう、何事ですか? お客さん今日は終わりって書いてあるでしょ?」 明らかに普通の客に見えなかったが、自分が店員のフリをするためにそう言った。 外にいたのは夜中だというのにサングラスをかけた二人組。 着ている物は上から下まで真っ黒だった。とりあえずその手に武器がないことに安堵する。 私が『closed』の看板を指差すと、背の低い男の方が作り笑いをしながら言う。 「……あ、見えなかったもんで」 背の高い男は私には目もくれず、鋭い眼で店内を見ていた。 ……この界隈の者ではない、もしそうであるなら「ムサシはどこだ?」と問うだろう。 「……外は寒いですね〜。 仕方ない、お客さん一杯だけならどうぞ」 ショールを押さえながら、右手で店内を指す。 「……いや、俺らは…」 背の低い方が何かつぶやく。 一般人には言えない探し物…たぶん金髪の彼なのだろう。 私も振り返って同じように店の中を見る……と、サングラス越しの視線が私の席におかれた焼きおにぎりで止まった。 あきらかに食べかけで放置され、他の客がいたとも取れる………しまった。 背の高い男は、一瞬私が顔をゆがめたのを見逃さなかった。 …半ばヤケになって私は言った。 「…やだ、ごはん食べてるの見つかっちゃいましたね」 「…………」 完全にごまかせたとは思えない……しかしそれ以上男は何も言わなかった。 張り詰めるような沈黙……それを男の舌打ちがやぶった。 「他、行くぞ」 「……は、はい……」 男たちの姿が完全に見えなくなるまで、私は笑顔でゆっくりと手を振り、慣れたように扉をしめた。 そして、鍵を再びかけてやっと安堵した。
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